菅野先生 ありがとうございました

そんなに自転車が好きなら、うち(花園高校)に来い。
そう菅野先生がオレのオフクロに言ったのが花園高校進学を決めたきっかけ。
菅野先生の息子さんとオレが小学校からの同級生で近所。オフクロ同士がPTAでいつも一緒だったから相談したらしい。
もし他の高校へ進学していたり、自転車に乗っていなかったら間違いなく今の「三船雅彦」ではなかった。
そう考えると感謝しても全然足りない。
そのオレにとって最大の恩師の一人である初代花園高校自転車競技部顧問、菅野一(すがのはじめ)氏が今朝入院先の病院で亡くなられた。

もう一人の恩師である花園高校自転車競技部の伝説の始まりを作ったOBの八代正氏から先週連絡があり「菅野先生がどうもあと1週間ぐらいかも。一度病院に行けたら行ってあげてくれ」と連絡をもらったのだが、どうしても仕事の都合で水曜日か木曜日にしか行けない。
明日水曜日にでも久々に先生に会えるのを楽しみにしていたのだが・・・まさかの知らせだった。

菅野先生、確かに忙しいけれどオレがせっかくお見舞いに行こうとしているのに、そのタイミングで旅立たなくていいんですよ。
そう言いたくなるぐらい、まるで明日行くつもりだったのを察したかのような知らせだった。


この世に生まれた以上、いつかは必ずみんな死んでしまう。
そう考え、歳をとるごとに接してきた人は皆必ずお迎えが近づいているし、オレ自身もそう。
だから仕方ないことと昔以上に冷静にとらえていると思っている。
ただ、ここまでいろいろな思い出を共有したり、一緒に時間を過ごしてきたもの(人)を失うのは、やはり割り切れるものじゃない。


高校1年の2学期から学校まで約25km自転車通学。
学生服じゃ練習にならん!と部室に学生服を置きっぱなし。
レーサージャージのまま朝練がてら通学、当然のように校門を入ったところで見つかって問題になったり、カッターシャツだと首回りが汗で真っ黒になるのが嫌で、いつも学生服の下にTシャツやトレーナーで授業を受けていてやはり生活指導の先生に見つかり(要マークな生徒だっただけなんだが)、その都度顧問だった菅野先生が裏から生活指導の先生に詫びていたらしい。
京都大会や近畿大会では普通に入賞できるものの、全国大会だとインターハイで9位に入った程度。
しかし卒業して「ロードの花園」と言われた自転差競技部OBで、唯一プロになれたことが菅野先生もすごく喜んでくれたようで、報告に行くといつも仏頂面の先生がすごく興味深げにニコニコしてくれたのが本当に嬉しかった。

その後は年齢と共にいろいろとあったようだけど、確か79歳だったか80歳だったか。
大往生と言えるかはわからないけれど、菅野先生に関わった人たち、OBの方、後輩、自転車関係者・・・みんな何らかの形で菅野先生に指導してもらったことがどこかに形になって残っているに違いない。


明日はお通夜に行き、最後のお別れをしてきます。
長い間お疲れ様でした。
オレは先生に会えて本当に嬉しいですよ。
どうもありがとうございました

三船雅彦



高校1年の時、多分京都国体に向けて京北町で第1回府民ロードが開催。
実業団や学生の強豪と一緒に逃げて、最後はラッキーにも助けられて優勝。
表彰では菅野先生から賞状をいただいた
多分先生と一緒に写っている数少ない写真



高校2年の鳥取国体
京都の京の字のところが菅野先生、オレは写真一番右端
京都の監督はいつも菅野先生
1週間の遠征にいつも小さなボストンバッグ
着替えどないしたはんねんろ?が同級生とのネタだった