明日に向かって

週末は熊野で全日本実業団選手権ロード、翌週には全日本実業団選手権トラック、そして北海道とレースは続く。もうジャパンカップまでは休みはほとんどないかもね。
ベルギーにいたときもこの時期から10月中までは怒涛のレース漬け。
9月に20レースを超えたこともあったなぁ〜〜〜
2001年にはパリ〜ブリュッセルの一発で翌年度の契約を決め、面倒くさい交渉も省くことに成功した。
勝負どころでアタックをして、ベルギーフランス語放送のコメンテーターだった監督に実況が契約済みか?と聞いて、「そうだ」と言ったもんだから、結局契約を交わしていることにしろと口裏を合わせるように体育館裏に連れて行かれて(ドスッ!バスッ)言われた。

この時期、たまに来季の契約がなくって途方にくれたり、ベルギーから契約書のファックスが来なくって電話の前でボォーっとしていた頃を思い出したり夢に見る。
エストロ時代は運営がいい加減で、給料未払い絡みで選手がスポンサー社長宅に個人的に交渉と言うかもうちょい強引だけど、金をせしめてバイクもそのまま着服してアメリカに帰ったとか、そんなことが引き金で9月初旬にはチーム解散の噂は聞いていた。
そして俺はヤバイ!とすぐに他チームと接触。トニステイナー(現ランドバウクレジット)と契約することになった。
でも、1月1日からの契約じゃなかったし、同じトニステイナーがサポートするウクライナー籍のチームに潜り込むという裏技も準備していた。
98年は絶不調のシーズンで、絶対クビだろうと引退を決意した。
しかし監督によってもう1年続けられることに。ただし契約とかいうような条件なんてこれっぽちもなかった。ただ継続できるだけ・・・
多分監督と言うよりも、コルナゴ本社の意向が大きかったと思う。
日本市場を重く見るコルナゴが、日本人一人ぐらいはプロに置いておきたいと思うのは普通だし・・・客寄せでも何でもそこから這い上がって俺を見せてやるぜ!とそのシーズンオフは強烈に練習した記憶がある。その甲斐あって99年はフランドルに出場できたしね。

2002年は監督との話の中であと3年、そして一緒にグランツールに行こうという話しだった。
でも結局事情が変わり11月に解雇。このときは強烈に焦った。
もう一度欧州に行くのか、それとも辞めるのか・・・
いろいろ迷った挙句帰国。そのときミヤタに、いや友人である栗村監督に拾ってもらう。
最初の年は拾ってもらっただけで給料もなかったし、もう自分の脚で稼ぐしかない。毎レースが勝負で捨てレースなんて言ってられなかった。

去年はミヤタから戦力外通知を受け、移籍先を探すもいい返事はもらえず、土壇場で安原監督に拾ってもらった・・・

この時期はいつもそんな宙ぶらりんな気持ちを思い出し、そして1年契約である以上、またその気持ちを持って年末まで過ごさなければいけない。特に今日みたいに朝から分厚い雲に覆われた日だと、練習していても考え込んでしまう。
でもそうは言ってもレースで活躍してナンボ!
あとは走って頑張るしかないです。

何であの山だけ雲が湧き立つの???と5分後に大雨(泣)

何でこんな時期にマネキンのクビだけ・・・想像してしまうじゃね〜〜か