4年周期

今日は慌しく、気が付いたら富山県魚津市内にあるビジネスホテルでくつろいでいる。
明日はシクロクロス世界選手権選考会。例年よりも3週間ほど早くに選考会だから、自信はあまりなく、あるのは不安。でもそれはみんな一緒だしね。不安はあるけどあまり深くは考えていない。
あと2ヶ月ちょいで2006年も終わる。
俺にとって今年はいろいろな意味で大事な年だったと思うし、喜怒哀楽、すべて起こるべくして起こったようにも思う。
良かったとか悪かったとかってことは今の時点で何も分からない。ただ分かっているのは4年周期でグルグルと一周しているのかも知れない。
ちょうど4年前の2002年。ランドバウクレジットをシーズン終了と共に解雇。向こうの成績を知る人たちは、俺が翌年契約できないってことは理解できないと言った感じだった。俺も絶望しか目の前にしかなく、日本に戻って第二の選手人生を日本で再開しようとオファーを待ったが、結局どこからも相手にされず栗村監督に拾われた。
条件も何もなかった。チームには俺を雇うスペースはどこにもなかったのだから。
でも俺は最悪のシーズンだったとは思っていない。
多くの日本のサイクルファンの人に覚えてもらい応援してもらえるようになったし、ベルギーにいたときは俺のことを知っている人など、ほんの一握りだったはずだから・・・とにかく自分のスタイルを貫いた。

その4年前の98年。俺はシーズンスタートと共にまったく身体に力が入らず、9月までまともに走れないシーズンだった。クビを覚悟したが監督は前年度の俺と比較し、
「97年のマサが本当のマサだろう?だから俺はもう1年様子を見ようと思う。来年は今年の分も返すようにしてくれ」と、お情け的に契約更新で最悪の条件。
そして翌99年。始めてフランドル一周にも出場。世界レベルのレースでもなんとか通用する自分を見つけ出すことが出来た。もし98年に好調でクリアーしていたら、もしかしたらあれほど負けず嫌いに頑張れなかったかも知れない。だから今にして思えば、悪かったから良かったのだ、と。

その4年前の94年。俺はプロ登録して夢に満ち溢れていた。しかしまったく走れない自分がプロではなく観光客のように、現地の人から見れば会釈をする以上の存在にはなれなかったと思う。
プロになったことは喜ばしかったが、その他は何もいいことはなかった。
おっと、良かったのは妻と結婚したことぐらいか・・・

90年は三船雅彦史上、もっとも最悪なシーズンだったし。オランダでは走るレースすべて一桁で「必ずプロになれる」と言われながら帰国した。日本には俺の夢を受け入れる土壌はなかった。走っていても何も見出せず、ただ惰性だった・・・でもそのおかげで本気でヨーロッパに骨をうずめようと決心できた・・・
午前中に練習してそのままアルバイト。夜中2時に帰宅することもあった。
そして貯めたお金でオランダへと渡った・・・

俺の場合なぜか4年周期。
そして七転び八起き、必ず翌年は「良かった」と心底思える年になっている。

日本ハムの新庄選手の引退記者会見がテレビでおこなわれていた。
新庄はじめ中田ヒデなど力があるうちに引退、対して清原や桑田、三浦カズのように出涸らしになるまで続ける、どちらも答えは間違いじゃない。正解でもないかもしれない。すべての答えは自分で出すものだし、出さなきゃいけない。俺はそうやって「正解」を作ってきたんだと思う。
今年は俺の中で失敗。でも失敗と言うよりは種まきだったと思いたい。